至誠の塔(1)



 

 

 

 

 暖かな光が、磨かれた木の床へと降り注ぐ。リウスは、ゆっくりと上体を持ち上げた。焦点の合わない視界に陽光が滲み、光に照らされた細かな塵が金粉のように煌めいた。白と黒の毛皮に覆われた足に、陽だまりの熱がまばらに伝わる。自分が生きていることに気が付いたのは、その時だった。

 

 リウスは現実を確かめるように身体を動かし、跳ねるように立ち上がった。長らく眠っていたような、それでいて全力で走り切った直後のような、相反する感覚が彼の身体を伝う。まずは周囲の安全を確認。そして、自分ともあろうものがこんな廊下の一角のようなところで眠りに落ちてしまうとは、と浮かんだ羞恥を、尾についた埃とともにはたき落とした。

 

 ようやく辿りついたのは、直前の記憶。光も届かない闇の中の、戦いの記憶。数年の年月を経て、ようやく果たした目的。死線から急に遠ざかり、今はただ俯瞰している感覚。読み終えた本が本棚へと帰るように、”その世界”を終えた自分は元の世界へと帰ってきたのだろうか。彼はそう思案した。

 

 今はいつだろうか。当時の記憶を探り、ここがラカセナ大学領内だと目星をつけたリウスは、近くの扉に手をかけた。鍵穴はない。

 

 扉の向こうは、見慣れない客室だった。大きな窓からは、久しぶりに見る鮮やかな青空が広がっている。ベッド、机、収納棚。一見すると普通の部屋だが、リウスはその違和感に身構える。机の上には、彼が愛用する筆記具と物理学の本。棚には彼が書き溜めてきたノートが並ぶ。しかしそこには、あるはずのないノートが混じっている。

 

 悪寒を感じたリウスは、これ以上の追究は無益と判断し、足早に部屋を後にした。

 

 比較的幅の狭い廊下を、彼は音を立てないように摺り足で進む。ここが宿であれば、部屋に鍵のひとつもついているべきだ。廊下の終点は円形の木造空間になっており、自分が目覚めた場所と同じように、6つの廊下が放射状に伸びている。教員用の長期滞在宿舎か、何かしらの研究施設か、あるいは留置所か。様々な可能性を考慮しながら、リウスは中央の柵に手を掛け、階下を覗き込んだ。

 

 下へと続く階段は途中で折れ曲がっており、その先は見えない。しかし、踏板の幅が広いことから、リウスは少なくともここが宿のような場所であると考察した。すなわち、廊下から先は個人向けの居室であり、階段は複数人が同時に行き来することを想定した構造なのだろう。下に降りれば、誰かに会えるかもしれない。そう考えたリウスは、階段へと足を踏み出した。

 

 上階に鍵の無い客室と考えると、ここは宿を備えた食堂なのではないか。そうであれば、食堂はきっと石造りだろう。踊り場を越えるとはたして壁材は木から冷たい石へと変わり、外の喧噪を遮断するかのような重厚な扉が現れた。リウスは迷うことなく、その扉を押し開けた。

 

 扉を開けた瞬間、目の前に広がったのは、がらんどうの石造りの空間だった。食堂から厨房、机、椅子といった調度品を全て取り払ったような、殺風景な場所。角の取れた石材が整然と並び、平滑に磨き上げられているだけだ。リウスは、食堂という仮説が半分だけ当たった無力感と孤独から、まるで講堂だと小さく呟き、大きく開け放たれた窓の外、空と雲を見上げた。

 

 違和感はそれだけではなかった。リウスは確かめるように、窓へ向かって歩き出す。

 

 しかし、窓から見えるはずの山や建物、地平線といった風景はどこにもない。窓枠から頭を出して下を覗き込んでも、見上げる先も空と雲だけだ。反対側の窓からも同じだった。どうやらここは、途方もなく高い塔の中らしい。異界から戻ったと思えば、また別の異界。リウスは頭を抱え、改めて何もない部屋を見渡した。

 

 自分がやってきた扉とは別に、もう一つ扉がある。位置からすると、厨房の裏口といったところだろうか。リウスはゆっくりと歩き出した。かつて彼が戦い抜いた世界は、彼以外に誰もいない孤独な世界だった。最初の敵は孤独。魔素を使い、世界の記憶から英雄たちを呼び出して共に戦った。そのおかげで多くの他者と触れ合えたが、それはあくまで召喚された偽物だった。ゆえに、この世界で本物の他者と出会うことは、切実な願いだった。だから、今はただ、誰かに出会いたい。そう強く思った。

 

 扉は古めかしい木材でできているが、建て付けは新しい。ガチャリと音を立てて開いた扉の先は、薄暗い屋内だった。半円状の空間に、壁に沿って緩やかに曲がる下り階段が続いている。小さな窓からわずかな光が差し込むだけの空間で、この塔から脱出するにはどれほど降りなければならないのかとリウスは階段の下を覗き込んだ。

 

 そこに、人影があった。

 

 リウスは石段を2段飛ばしで駆け降りながら、目を凝らした。春先の若草のような髪。リウスを見上げるために掲げられた、落ち葉色の羽に覆われた腕。

 

「ロシュメルさん? ロシュメルさんですか?」

 

 迷わず、リウスは思い至った名前を口にした。

 

 おっ、と彼女は声を上げた。鮮やかな黄緑の髪は、本人の気質を表すように乱雑に後ろに撫でつけられている。空竜下族の伝統衣装である胸当てと腰巻、そこに吊るされた濃緑色の石が揺れる。特徴は間違いない。しかし彼女は、翼を高々と掲げ上げてリウスに答えてみせた。その様子にリウスは違和感を覚え、足を止めた。

 

「よっすー、あー、元気してる?」

 

 彼女の動作も言葉も、リウスの知るロシュメルとはまるで違っていた。ああ、そうだ、目だ。夜の闇のような、青黒い瞳。明かりのせいで気が付かなかったが、瞳孔だけでなく眼球全体が深く染まっている。生物に擬態した魔物かもしれない。リウスは警戒心を強めた。

 

「ロシュメルさん、ですよね?」

 

 まずは確認をとる。

 

「おうよ?」

 

 返事は肯定。しかし、どこか軽い。

 

「その目、どうされたんですか?」

 

 簡潔かつ、核心に触れる質問をリウスは投げかけた。彼女はリウスと一度だけ視線を合わせると、明後日の方向を向いてゆっくりと翼を広げた。

 

「んえ? 目はずっとこうだよー」

 

 彼女はそう答える。しかし、リウスの知るロシュメルなら、こんなにもわざとらしい愛想笑いを浮かべるわけがない。

 

「あー……あのさ、ウチら、どこかで会ってる?」

 

 暫くの沈黙の後、ロシュメルらしき生物が歩み寄り始めた。一人称も違う。彼女はもう、すぐそこまで階段を昇ってきている。希少な空竜下族竜人だ。他人の空似ということはありえないだろう。擬態した魔物というものは、生物に接近して襲う傾向にある。その場合、戦闘は避けられない。しかし、もし本物のロシュメルだったら?今ここで敵対的ととられる態度を取るのは得策ではない。リウスは身構えた。



「なあ」

 

「自分は貴方のことを存じております。して、ロシュメルさんは、自分のことはご存知ないのでしょうか?」

 

 促されたリウスは、正直に答え、尋ね返した。

 

「んー、わからんなあ」

 

 ロシュメルらしき生物の回答も、リウスには正直そうに見えた。彼女は数段ほどの距離をおいて止まると、翼の先をくるくると泳がせた。

 

「なあ、今って何年か、わかるか?」

 少しばかり気まずそうに、今度は彼女の方から話し掛けてきた。リウスはいつでも励起魔素で戦えるよう後ろ手に魔素を集めていたが、その質問には答えられなかった。当然答えられるはずの数字が、なぜか頭に浮かんでこない。

 

「はーん、やっぱりそういうとこの記憶、出て来ない感じ?」

 

「ええ。して、あくまで仮説ですが、少なくとも貴方は、自分の知るロシュメル氏ではないようです。しからば、自分が知る貴方についてお伝えしますので……」

 

「すり合わせね、言うてみ?」

 

リウスは警戒を解かぬまま、彼女もまた警戒を解かぬまま、見掛けの親睦のために触れ合うほど寄り添って、二人は階段に腰を下ろした。